日本茜染色の不思議②

日本茜の黄色を何故、染めるのか?

 

1300年以上も前から、日本茜を使った染色技法は確立していた。飛鳥、奈良の時代には、租調庸(昔は租庸調だったと記憶)、要は、日本茜の赤根も税として全国から奈良の中央に納められていた。又、天皇、皇后が必要とする繊維類を染める「内染司」(公務員の染め師)が居たという。

 

奈良の正倉院に残るこの当時の聖武天皇の御愛用品が、国家珍宝帳(756年光明天皇が聖武天皇の遺品、六百数十点を東大寺大仏に献納した際の目録)に記されている。その内の、約150点が「緋」が使われているようだ。(一番多く使われている色で、又、禁色とされていたようだ)

 

平安時代に編纂された、延喜式(「養老律令」の施行細則を集大成した古代法典)縫殿寮の中に日本茜を使って染めたとされる「緋色」を染めるに必要な材料と数量が記されている。・・・綾1疋(反物2反分)を浅緋に染めるのに、茜大30斤(18㎏)、米5升(9L)、灰2石(360L)、薪360斤(216㎏)・・・2反の反物を染めるのに、染料他を湯水のような莫大な量が使われている。又、染師も所謂、公務員なのでコスト意識は全く無かったのだろう。

 

時代が移り変わる中、内染司も無くなり、膨大な量が必要とされる日本茜で染める「緋」の位置付けも当然のことながら変わっていったのでしょう。鎌倉時代にはその染め方も途絶えていったようだ。

 

翻って現在を観たとき、染料となる日本茜は、殆ど販売が無く、自生するものの見分けて採取する人も極僅か。また、古代の裂地復元時には必ず必要となる貴重な染料であり(インドや西洋茜を代用できる筈も無い)、且つ染技術であることに間違いはない。ところが直ぐにと言われて、何方も対処覚束ない状況にあるのが現状だろう。

 

このような事を知り得た中で、日本茜の自生種を見つけ、少しばかりの株を持帰り栽培を始めた。(2009年)

その時から悪戦苦闘が始まった。根は細く、1m、2m、石、岩の狭間にも堅い土にも何処までも長く伸びていく。一つ覚えのように3年間育て、やっと掘り出した赤根が、染色1回で一瞬のように消えていった。凝りもせず、今度はもっと多く植えるぞとリンゴ箱60箱。私にとっては非常に多い栽培量と思って3年が経ち、心待ちして得た赤根が2㎏と少々。ここから、染色の苦闘が始まる。赤根の半分は、赤色素を抽出も出来ずに土に返してしまった。一日中染めていた或る日、毛糸の染まる色が、赤色に、橙色に、夕刻には黄色にと染め色が変わっていく。この日の経験が、今に繋がって、煮出し方と染める順番でだけで、自在に染め分けれる技法を得ることになった。

 

もう一つの理由は、その他大勢の植物染料のように、お金を出して赤根を買える環境には無く、また自生種の赤根も探し当てて掘り出す事も簡単には出来ない中、5年、6年と汗水たらして、毎年、挿し芽株を増やし、植込み、草を取り、水を遣り、3年してやっとその赤根を染色に使える。と思うだけで、先ず「勿体ない」から始まり、限りなく色素を吸い取ってしまいたい気持ちにさせらる。この理由が最も大きいのかもしれない。

 

苦労して育てて使うところに、植物に対しても愛おしさを感じるのだろう❣ と思う。

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コメント: 2
  • #1

    梅田正之 (土曜日, 18 7月 2020 15:23)

    これまでのご苦労が簡潔且つ明瞭に記されていて、「限りなく吸い取ってしまいたい」というお気持ちがひしひしと伝わってまいりました。「今、杉本さんがやらなければ誰がやる!?」という感じですね。1300年の歴史を背負う気概を知り、いよいよこれから始まるのだということがよくわかりました。

  • #2

    杉本一郎 (日曜日, 19 7月 2020 14:00)

    有難うございます。
    今初春より、幻と言うレベルからすれば、少ないと言いながらも、多くの赤根が採取できるようになってきて、「コト」、「モノ」の売りに繋げる環境になっていました。
    苗の販売は、植物としての日本茜を身近に感じて頂こう、また、染講習会(WS)では、こんな色に染まるんだ❣と云う事の魅力を感じて頂き、ファンを増やしていくことで、日本茜の認知度を拡げる活動なんです。
    今年内には、日本茜で染めた製品を市場に出していこうと思っています。